日々がハレノヒ

禅問答な生き方をしていこうと思っています。これからの人生をどう生きようかと悩める大人と、幸せってなに?について語り合えたらと思います。

私の宗教観について今話せること

今日は最後まで書いたとしても、もしかすると10年後は違うことを言い始めるかも知れない話。
実は私、おばあちゃんから続く宗教家庭に生まれておりまして、
有名中の有名な〇〇に生まれた時から入信していました。
物心ついた時から実家には立派な仏壇があり、
朝晩の勤行や地域の会合に出るのが当たり前でした。
母親は新聞配達をしていて、私もよく手伝っていました。

ものすごく田舎で育ったのですが、小学校高学年くらいから
「なんとなく浮いてるかもしれない」と気づき始めました。
勤行をしている同級生はほぼいないし、毎週日曜日の会合に出るのは決まった顔ぶれだけ。
近所でもなんとなくヒソヒソされているような空気感を子供ながらに感じていて
思春期にはすでに自分を「人とは違う何か」と認識していました。

お正月は必ず大きな会館に座談会に家族総出で繰り出し、
神社の鳥居をくぐるなと言われているからお祭りも心から楽しむことができず、
子供会で催されるクリスマス会も罪悪感に包まれながらモヤモヤと共に参加する。

もちろん、その時はそれが当たり前だったのでそれなりにいい思い出もあり、
本当の暗闇だとは思っていませんでしたが、
みんなが楽しそうにしているものを「それ違うのになぁ」って斜めから見ていたことは
今の私の人間形成にとても大きな影響を与えていると思っています。
そうですね、きっと私がそのまま大人になっていればよかったんでしょうが、高校生くらいで
「なぜこの宗教は自分たち以外の悪口を言いまくるんだろう?』
という疑問が頭に浮かび、その疑問は消えることなくどんどん大きくなっていきました。
だって、あろうことか新聞や座談会では他の宗教や政治の悪口を言いまくるんですよ。
なんていうかほんとに「悪口」なんです。
宗教は人を幸せにするためにあると思っていたから
「自分たち以外は全て悪」として貶めるような風潮に本当に心から嫌気がさし始め、
一人暮らしをするようになったことをきっかけに、その宗教から徐々に離れていきました。
ただ、生まれた時から刷り込まれた知識はなかなか払拭できるものではなく、
バチが当たるかもしれないという恐怖感は、何十年経った今も心の根底にあります。

これは余談ですが、
私は23くらいで大阪で一人暮らしを始めたのですが、
大阪の支部からの訪問が週に一度程度ありました。
怖いから居留守を使うんですが、帰った後には必ず温かい言葉の手紙が郵便受けに入っているんです。
おそらく、いや間違いなく私の親が「よろしくお願いします」と伝えていることで家庭訪問をしてくれたんだと思いますが、
当時足抜けをしたばかりの私からすると本当に恐怖でした。
このような出来事やバチが当たるかもしれない恐怖感や罪悪感を抱えながら、
それでも自分の人生をなんとなく模索していく。
これが私の20代でした。

そんな若かりし頃に出会ったのが、サイババでした。
宗教を変えただけじゃないか、と笑われるかも知れませんが、
サイババは宗教や教祖ではなく、聖人です。
あえてカテゴリー分けするなら思想家というべきか。
親鸞日蓮も、実在していた当初は聖人でしたから
未来にはサイババ教になるかもしれませんが。

ともかく、物心ついた頃から「神はいる、自分の中にいる」という確信があったことで
私はあの宗教よりもインドのサイババの思想に共感したのです。

私にとってサイババやインドは、自分と向き合う自信につながりました。
インドは宗教も何もかも混沌としていてまさにカオスですよね。
その混沌が、私にはとても心地よかったんです。
日本で暮らしていると、得体の知れない罪悪感と共に生きていかざるをえない私でしたが、
(そう、この頃には罪悪感の元が無意識下で団子のように塊になり、黒い生き物として私の芯に鎮座していました)
インドの本を読み漁るにつれて
「やっぱり神様は自分の中にいる。自分しか頼れないから自分をいじめちゃいけない」
という思いを抱くようになりました。

いわゆる一神教と言われる宗教は私にとって
「こんなことをしていると怒られる、地獄に落ちてしまう」
という気持ちにさせられるものでした。
仏様や神様が、いつでも自分のことを見張っているんじゃないか、と。
でも自分が神様だとしたら、自分が自分を認めてあげられればいいんです。
むしろ自分でしか自分を認めてあげられないんです。

・・・そうわかってはいるんです。
でも自分を自分で認めてあげるのは、私にはとても難しいことでした。
私の人生の大半で育った黒い大きな生き物に抗うことなどできるはずもなく、
いとも簡単にズブズブと自己肯定を下げる沼にハマっていきました。

実は私は、過去の自分について振り返ってみると
どれが本当の自分なのだろうとわからなくなるんです。

絵を描くことが大好きで、賞もたくさん獲って将来は絵に携わる人になると漠然と思っていた小学生時代、
ある時から絵や漫画を描くことがダサいと思い始めてペンを置き、音楽がかっこいいとバンドを始め、
気づいた時には人と違うことをするのがかっこいい、自分の道だと信じて大学を中退し、
髪を金髪にしてガソリンスタンドで働き、美容師になるんだと言って大阪に出て一人暮らしをし、
お金が欲しいからと言って水商売を始めて美容師をいとも簡単に諦め、
夜に溺れていく自分がかっこいいと思っていたから40歳まで水商売で生きてきました。
そう、「かっこいい」自分を追い求めては元々の自分を「かっこ悪い」ものとして消し続けてきたんです。

でも、理想の自分になりきることって、本当に、本当に難しいですよね。

インドの本を読み漁っていたあの頃、神様は自分の中にいるって確信していた頃、
ちゃんと自分を認めてあげる作業をしていれば、
瞑想によって自分を見つけてあげることができていれば、
こんなにいろんな自分を演じることもなかったのかも知れません。

自分を見つけられていないことの怖さに、
「頭でわかっていても行動できない」ことがあげられると思っています。
簡単に言えば、自分に自信がない。
例えば職場で自分を目の敵にする人がいたとして
物理的にその人と極力関わらないようにしたり
気がまぎれることをしてみたり、
きっと方法はいくらでもありますよね。
そもそも人からの評価を気にしないでいられればいいのですから。
でも、自分に自信がないから自分の判断にも自信が持てなくて、
その人と関わらないようにすることなんて無理じゃないか、
仕事している以上は仕事以外のことはできないじゃないかと
あらゆる言い訳をして自分で逃げ道を塞ごうとします。

嫌なことがあった時の対処法がわからないんですね。

だから鬱になったり、自殺を考えたりする。
歳を重ねれば重ねるほど重たい荷物をはねのけることができなくなります。
かさぶたが治りきるまえにさらに新しいかさぶたができてしまい、傷口を見えなくして自分を覆い隠すんです。

だから私は、この大きなかさぶたを、心に巣食う重たくて黒い生き物を
死ぬまでにきれいに浄化することを生きる目的として生きています。

私は今地獄に生きていて、まだ来世も地獄に生まれるでしょう。
そのくらい今世で業を重ねています。
執着や煩悩、目の前の課題をクリアできず自ら積み重ねていったその重さで沈んでいく生活。
本格的な老人になって身動きが取れないようになるとますます深刻になっていきます。
なので早くここから抜け出す努力をしないといけないのです。
急いで抜け出したいと焦る人が、宗教に助けを求めてしまうのでしょう。
でも、宗教はカンフル剤か麻薬。本当に解決してくれるものではありません。
自分以外に助けを求めることは、すなわち自分を見つけることを遅らせます。
私は僭越ながら警鐘をならしたく、この記事を書きました。

宗教についての記事なんて、本当に書いていいものか悩みましたが、
私の人生の土台として確かに存在し、避けて通ることができません。
また、苦労から目を逸らした時点で大きく後進してしまうのが人生なので、
せっかく苦労したのならしっかり分析して今後の余生に生かすのが生まれてきた意味ですものね。

 

すずめの戸締りを見て※ネタバレ

君の名はを見てからはや6年。
実は私は「天気の子」を見ていません。
仕事が忙しかったこともありますが、
前評判があまり芳しくなかったことが一番の理由です。

かといって新海誠監督作品はメッセージに溢れているので
どんな前評判だとしても見るべきだったはずなのですが・・・
すみません、次回までに配信動画でですが必ず見させていただきます。

さて、すずめの戸締りは君の名は以来の大ヒットを記録していますよね。
かく言う私も6回映画館に足を運び、鑑賞させていただきました。

というのも、1回目の鑑賞だとかなり後半まですずめにモヤモヤしっぱなしで
頭に入ってこないんです。
おそらく私が猫好きで、ダイジンのビジュアルと声が可愛過ぎて
ダイジンにばかり感情移入してしまったことが敗因でしょうか。

※ネタバレとなりますので、ここからは注意をお願いします※

まず、キラキラした女子高生がイケメンに会った瞬間から恋の予感が始まるシーン。
何回か見ていくとこのシーンの奥深くに隠されたものが見えてくるのですが、
とにかく思春期にイケメンに会うとこうなるだろうな、というわかりやすい描写から物語は進んでいきます。
同級生に顔が赤いと指摘され、思い立ったようにイケメンを探しに廃墟に足を踏み入れるすずめ。
そこでこれまた「あなたに会ったことがあるような気がするんですけど・・・」というお決まりのセリフ。
イケメンを探しているときにふと水たまりの中に佇む扉を見つけ、水たまりなのにも関わらず扉に近づき
不用意に扉を開ける。
中にはまるでこの世のものと思えないような満点の星空が見え、
そこに吸い込まれるように一歩踏み進むがなぜか扉の中に入れない。
でも扉の中を見るとやっぱり星空が見える。
それを繰り返しているうちに、足元に石があることに気づきます。
その石に近づくとザワザワ何かが聞こえてきて、思わず石を持ち上げるが
急に毛が生えた得体の知れないものに変わり、思わず手を離す。
怖くなったすずめは、開けた扉も抜いた石もそのままに走ってその場を去っていく。

この流れが強烈な違和感だったわけです。
強引過ぎないか?と。

そのまま映画を見進めていくのですが、やっぱり浅はかな女子高生として認識してしまっている以上
すずめがやることなすことモヤモヤしてしまうのです。

これが1回目の鑑賞でした。

ですが、こうして長々と1回目のグダグダ感に触れたのは大事な理由があります。

私的考察その①
すずめをわかりやすく思春期の女の子として描いた理由

この映画のキーは「人間のさまざまな思いが渦巻き、ミミズとなって災いをもたらしている」こと。
人間には感情があり、人を好きになったり憎しみを持ったり悲しんだりします。
好きになることや愛を持つことは一見悪いことに思えませんが、
愛を持つと言うことはその反対の憎しみが生まれることにもつながります。
愛と憎しみは正反対で対の存在。愛が生まれると同時に憎しみも生まれます。
これが複雑に絡み合い、ドロドロとしたものに変わっていく。
まさにミミズなのです。
また、思春期の感情は清く、描写として適していると言えますので
映画の初めから終わりまで「人間の思い」を芯として置いておくための大切な背景だったのかなと思っています。

私的考察その②
ダイジンの存在

ダイジンはとてもかわいい猫の姿をして、行く先々で人々を魅了しています。
また、ソウタやすずめから逃げるように北上し、その間も意味深な行動をし続けます。
すずめはそんなダイジンをみて「ダイジンが扉を開けて回っている」と思い込みますが、
本当のところはどうだったのでしょうか。

ダイジンはソウタいわく、神だということのようです。
要石として大切な役割を担う神。
そんな神が逃げ出し、大事なそうたさんをイスにしたままふっといなくなる。
そうたとすずめはこう思っていたようです。
ですが私はこう思います。
ダイジンは神。
ダイジンは、すずめが「うちの子になる?」と言った時から
すずめのために行動しています。

神様だからすずめの行く先々でお店が繁盛したり人に助けられたりすることで
すずめが扉に行き着くための手助けをする。
神様だからすずめに「もう二度と顔を見せないで!」と言われてしょんぼりと離れていき、
ダイジンという神様が離れてしまった瞬間から誰もすずめを手助けしなくなる。
でも要石という神様であることから、離れた後も
すずめが戸締りするための行動を助けようとします。
サダイジンとダイジンがサービスエリアで合流し、そこからお供することからも
神様として役割を果たそうとしているのだと思うと、けなげで悲しい気持ちになりますが、
神様なので人間目線の感情はきっとお門違いなのでしょう。
すずめの子になれなかったから、せめてスズメの手で(要石に戻して)というセリフがありますが
あのシーンは本当に本当に切なくなりますね。
なぜあのような悲しい描写になったのかを考察したくて
何度も映画館に足を運んだようなものなので、
ダイジンについてとても長くなってしまいましたが、
「神様だから」という視点であれば私の心が救われるという、私なりの考察でございました。

私的考察その③
たまきさんについて

たまきさんは、すずめの人生の闇の部分を描写するために必要な存在です。
震災孤児である姪を、自身は独身であるにも関わらず「うちの子になろう」と言って家族になり
さまざまな葛藤を抱えつつすずめを育ててきた女性です。
私はこのたまきさんが重要なヒントを持っていることに気づいたのは
主題歌を担当したRADWIMPSさんのサントラに収録された曲をきいたことがきっかけです。
実はサントラには、本作で使用されていない曲が収録されていて、
そのうちの1曲が「Tamaki」という曲で、歌詞もまさに映画で使われないことを想定しているような歌詞。
ということは、この歌詞は映画を理解するヒントなのではないかと思ったのです。
すずめに対するたまきさんの心を歌ったようにも思えますが、私はこの歌を
たまきさん本人に対する心の声なのかなとも思いました。
すずめを引き取ってお世話をするが思うようにうまくいかず、
すずめの心がわからず振り回されているような気持ちがずっとある。
でも突き放すと自分が善人ではなくなるのでは、と
良心の呵責のようなものもあって、
そのはざまでずっと生きてきたたまきさん。
サダイジンがサービスエリアでたまきさんの本心を引き出した時から
たまきさん自身もいろんな呪縛(自分が課していたもの)や複雑に絡んだ思いから解き放たれ、
その後は晴れやかな顔ですずめと仲直りできていました。
人間の思いが絡まってできたミミズを抑えるかのごとく
ダイジンとサダイジンの要石(神様)の役割が発揮された場面として
大好きなシーンです。

人間は神様に助けられつつ、神様からもらった愛(感情)を昇華していくことができれば
きっとミミズは消えていくのでしょう。
この映画は私に、人間の本来あるべき姿について深く考えなさいと教えてくれたような気がします。
新海誠監督、心からありがとうございました。

 

 

 

自分自身に勝つこと について

自分自身に勝つこと(ダンマパダ103)

 

「戦場において
100万人に勝ったとしても、
ただ1つの自分自身に勝つことの
できる者こそが、最高の勝者である。」

「自分自身に勝つこと」を文字にすると、
例えば自分自身の欲に打ち勝ってタバコを止める とか
自分自身のだらしなさを知って奮い立って頑張ってみる とか
ダイエットの延長線上のようなイメージがある。

我慢をして自分の理想の自分を手に入れる、すなわち自分自身に勝つ。
それももちろん、自分をいったん擬人化し対峙することですが、
まず自分自身というものが今、自覚している姿なのかどうかということです。

今流行りの職業「YouTuber」のヒカルさんという人がいて、
この方は若くして手に入れられるすべてのものをしっかり手にしている数少ない人であり
表現者なのでわかりやすくサンプルにできるので今回登場していただこうと思う。

この方、お金を稼ぐことよりも世の中に影響を与える人になりたいと常々言っているそうです。
自分をカリスマと名乗り、カリスマとして生きてきて、本当にカリスマになっている。
その姿や言動は、まさにカリスマたるもの。
ヒカルさんが言うことなすこと、そのすべてがニュースになり、若い子たちが虜になっています。
でももし、自分がカリスマになりたいという夢を持っているとして
さあ何を始めますか?

カリスマの定義を調べると
「超人間的・非日常的な、資質・能力。英雄・預言者・教祖などに見られる、民衆をひきつけ心酔させる力。」とあります。
超人間的、非日常的な資質、能力、人を惹きつけて心酔させる力とあるように
普通に生きているだけでは備わっていない、むしろ普通の人間ではなしえないことがカリスマたるものなんだと思います。
でも、これは「ヒカルさんだからでしょ」というと、自分自身に勝つことにつながりません。
ヒカルさんは私たちと同じ人間です。
私たちと同じように家族もいれば、特別に何か超能力を持って生まれてきたわけではないのです。
彼は日々、もちろん今も、カリスマになると言っていたそうです。
自分はカリスマになると自分に言い聞かせて、カリスマに必要なものは何かをカリスマとして探し、
カリスマになるべくしてなったのだと思います。
元々自分がカリスマの素質があるとわかっていたのかもしれません。
自分を俯瞰で見て、自分には何か人と違うものがあると気付いていたのでしょう。
自分に自信を持つことがまずカリスマとしての光の源でしょうから、
自分が自信を保っていられる周囲の人間の見極めも素晴らしかった。
お兄さんがいなかったらもしかすると今のヒカルさんはいなかったのかもしれません。
普通に生きてきたらこうなるだろうなっていう等身大のモデルケースのお兄さんがすぐそばにいてくれたからこそ、
自分を客観視しやすく、カリスマの姿を明確に見える化できたのかもしれませんね。
彼はまさに「自分自身に勝った」のでしょう。

長々と書きましたが、一番言いたいことは、
「人は自分に暗示をかけて自分自身を変えることができる」ということです。

スピリチュアル界隈でバシャールという人がいますね。
彼が真実を言っているかどうかは別として、
自分がワクワクするものを大切にしなさいという、有名な言葉があります。
私はこの言葉を「自分の心の声に耳を澄ませ、自分自身を見つけなさい」と解釈しています。
すなわちそもそも自分自身に勝つということを、我慢することだと思っていません。
我慢をすると、我慢したものをものすごく欲するようになります。
ダイエットをするためにケーキを我慢し、望んでいた容姿になったとしても、ケーキへの欲はまだ消えてないのです。
むしろ別の何かへの渇望に姿を変え、忘れた頃に自分が自分を苦しめる要因となって現れるのです。
自分の心の声に耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ませ、見つけた自分の本来の姿を見つけ出し、
その本来の自分になっていくことこそが自分自身に勝つことではないかと思っています。

私は以前に素食をしていました。
肉食を止め、五葷(ごくん・ねぎ、にんにく、にら、らっきょう、あさつき)を断ち、
自分の体に入れるものを制限していました。
いわゆるオリエンタルヴィーガンという食生活です。
最初の1ヶ月は肉体的、精神的にも何も影響がなく、ただ自己満足感のみでしたが
1ヶ月を過ぎた頃からまず唇の色が薄くなり、貧血のような症状が出始め、
慌てて体に入れるものを見直して栄養バランスを整え生活しました。
半年が過ぎたあたりから、感覚が鋭敏になってきて、匂いに敏感になり、味の微妙な違いに気づくようになりました。
自分の体がちゃんと食べたものでできている実感ができましたし、体の仕組みについて観察ができました。
変化については食べたものや味の感覚だけではなく、そもそも自分に備わっている五感を感じられるようになり、
五感が自分を地球で生きていく上でのシグナルとして働いて守ってくれているんだと改めて思いました。
食べ物は美味しくあるべきという錯覚を持ち、ウマミという名の化学調味料がたっぷり入った食事を大量に消費し、
栄養が余った状態になったから太り、太ったから食べ物をガマンして容姿を気にする。
こんな生活をしていた頃は、自分自身が出すシグナルの五感をフル活用することもなく外部の情報に埋もれて自分を見失っていました。

人間本来の持つ能力があるんじゃないかと思い始めたのは、この五感を感じられるようになったからです。
例えば事故や生まれつき目が見えない人は、視覚を失っているから
聴覚や触覚が発達して視覚を補ってくれるし、
聴覚を失った人は、視覚や触覚が発達して補ってくれる。
生きていく上で必要な能力を、自分自身で発達させて勝っていくんです。

人間はなぜ生まれてきたのか。
自分は何のために生きているのか。
私はよくこれを考えます。
現代人は生きるためにお金や社会的立場がないと生きづらいためにわかりづらいのですが、
そもそも命が生まれてきて何を目指すかというのは生きることなので、
生きることを説明するためにあえて野生動物の一生を例えに出してみます。
生きることをしなきゃいけないことを生まれながらにしてわかっているから、
まず食事をする。
食事をするために必要なのは親。
親を見て学び、守られて大人になる。
お腹が空いたら狩りをし、食事をする。
狩りをするにも命がけだし、狩りをされる側のこともある。
必要だから食べるし、必要だから寝る。必要だから群れや仲間と生きる。
能力が衰えたら狩りをすることもできなくなり、やがて死ぬ。
これが生きることです。
人間でなければ生きるためだけの営みでいいのです。
人間だから考えたり、欲に振り回されたり、社会生活を送るために試行錯誤する。
自分自身という自我があるのは人間だけと仮定すると、
やっぱり勝てるのも負けるのも人間だけ。
負けると自殺という選択をするのも人間ならでは。

そもそも戦場において100万人に勝つことはすごいことです。
その価値観では自分自身に勝つことなんてちっぽけでしかないと感じます。
でも、勝つことってなんだろうってことです。
自分自身ってなんだろうってことです。

まずは自分自身の声をしっかり聞き、自分自身を見つけましょう。
そうしたら勝つことの意味もわかってくるでしょう。
決して他人からの評価の元での「勝つ」ではなく、
自分自身に打ち勝つこと。

悟りです。

悟りというものがどれだけ難しいかというお話。
でもまずはその第一歩は今すぐにでもできます。

さあ、始めよう。

君の名は という映画を見て

君の名はを見たのは2016年。
その時は観る前のイメージがただ「評判が良かったし見てみるか」と、
当時バーテンダーとして働いていたことからいわゆるネタづくり的なきっかけで映画館に行きました。
映画の序盤の感想は、まさにいわゆるアニメ映画。
可愛い女の子の寝起きから始まって、キャッチーなオープニング音楽に乗せて
オーソドックスな入れ替わりのテーマの映画なのかなと。
でも、当時本当に人気映画だったし、なんとなく目が離せなかった何かがあったのかもしれない。
嫌悪感はまったくなく、ワクワクしながら見ていられていました。

雰囲気がガラッと変わったのは、
何回めかのアラーム音のシーン。
今までは半分夢の中と思っていたからこそのおふざけや軽いノリのようなテンポで進んでいた話が
ある時から真剣な、深刻なトーンのみつはになる。
瀧くんのデートを本心を押し殺して応援する健気な思春期の女の子。
劇的な彗星が落ちるシーンを挟んだときから
物語が進み、日本人の心をくすぐりながらも自分の半身を、潜在意識が求めて止まない片割れを探し始めてからは
もう目が離せなかった。

今思えば、序盤からなんとなく目が離せなかった理由も明確にあった。
絵がとても綺麗。繊細。細かいところまでよく描かれている。
最後まで見て気付く、至る所に張り巡らされた伏線の数々。
人は無意識に目から入る情報を、とても重要視しているんだなと思う。
まんまと新海監督の思惑がはまった瞬間だった。
もっと言えば、緻密に計算され尽くしていた映画だった。
この映画を観てからだと思う。私は映画にメッセージ性を感じるようになった。
むしろ、メッセージがない映画なんてないのかもしれない。
気付くのは遅かったかもしれないけど、90年代のアメリカ映画はあまり前面に出していなかったように思う。
そう考えると、宮崎映画と言われるジブリ作品は、メッセージに特化した作品ばかりだったな。
日本のアニメ映画がもてはやされるのは、そういう意味があったのかと、
本当にこの映画を観てから思うようになった。

話が大幅に逸れたけど、これは新海誠監督の言いたいことを明確に読み解く上でとても大切なことなので触れました。
キャッチーなものを通して惹きつけて、本当に伝えたいことを伝える。
表現者とはこうあるものなんだろう。

ティアマト彗星が1200年前にも糸守に落ちる。
糸守。糸を守る。組紐。糸。次元のずれ、ひずみ。
ヒモ理論などという学説もある。
3年前の過去に戻り現在を変える、という陳腐なものではなく、
次元の狭間で過去と関わり、絡んだ糸を解こうとする。
彗星。宇宙との関わり。量子力学や分子学をしっかり絡める。

本当に監督が言いたかったのは、これなのかもしれない。
恋愛や入れ替わりという、人が親しみやすいトリガーを仕掛けて
より多くの日本人に伝えたかったのはこのことなのかもしれない。

事実、本当に多くの人に、より感受性の強い人たちに受け入れられ、
巧妙に隠された伏線を回収するたびに真実を、メッセージを読み取る。
難しそうになるとしっかりわかりやすい描写を入れて脳みそを整理する時間をくれる。
(後日、伏線についての記事を書きます)

妄想はこれくらいにして、この映画が私たちにもたらしてくれたものはとても大きかったです。
映画は楽しむものってだけじゃなく、伝えたいことを表現するもの。
感動するだけじゃなく、生き方を見直したくなるようなメッセージを受け取るもの。

この映画の7年前に、日本は大災害に見舞われて、それまでの安心しきった日常はまやかしだと日本中が思った。
嘘のような大きな波に、それまで当たり前だった命がたくさん、本当にたくさん飲み込まれていった様は
それまで見たことも考えたこともない容赦ない事実だった。

忘れちゃいけないものが確かにある。
糸守にティアマト彗星が1200年周期で落ちることを
たびたび人類は忘れて、
そのたびに繰り返している物語があって、
それは糸守や東日本大震災だけじゃなく、
人類が忘れちゃいけない地球や宇宙との真の関わりがあることを
教えてくれているのだとしたら。
いや、ほぼ確実にあるはず。
地球は人間だけのものじゃなく、人間の好きなようにしてきたツケがそろそろ回ってきた今だからこそ、
このことを真剣に、絵空事だと思わず考えなきゃいけないんだと思う。

自分、自分の家族、友達、地元だけじゃなく
日本、世界、地球、宇宙の範囲で物事を見ていきたい。
恋愛や美味しいもの、欲しいものや夢はまやかし。
平和な日本と思っていても、世界から見た日本は違う。
虎視眈々と豊かな日本を狙う、シビアに生きている世界中の人たち。
コロナ禍が私たちに教えてくれたものはたくさんある。
現実を見ろ。自分をしっかり見つけろ。仕事やお金に追われる人生が本当に大切か。
幸せってなんだろう。幸せになりたいって思った時に
思い浮かべるものはなんだろう。

人は自分を忘れちゃいけないんだと教えてくれた。
宇宙から見た自分は、容姿が綺麗とか勉強ができるとかお金をたくさん持っているとか、
そんなものよりも等身大の自分の大きさしか見えないよね。
そういうことなんだろうね。

どんどん地球が「目を覚ませ」って私たちに教えてくれている。
それを、テレビの中しか見ていない人たちに教えてくれている。
地震が、コロナが、新海監督が。

私はこの映画を観た頃から、何かに気付いたのだと思う。
今の私は自分を見つけられたのだ。
ただミーハーに見えたこの映画が、私に
「自分を見つけて」とメッセージをくれました。
たぶん、こう思っているのは私だけじゃないんでしょう。
だからこそ、この映画はロングランヒットを記録したんでしょう。
そのくらい、日本人の心を揺さぶったのかと思うと
心から感心すると同時に、私も人の役にたつことをしたい。
そう思うようになりました。
模索し続けていましたが、スズメの戸締まりを観て
やっと自分の心が見えてきた気がします。

最後に、やはり映画のところどころで
ちゃんと日常を思い出させるシーンを入れるというテクニックは
さすがだと思います。

本当のラスト付近で、テッシーとさやかがブライダルの話をしている時のたわいもない会話。
パンケーキに憧れる田舎の女の子。
自転車に乗るシーン。
電車の窓から見える景色。
宮水神社の神事を行う時の、同級生からの嘲笑。
これが本当にバランスよく散りばめられていました。

スズメの戸締まりのお話はまた改めて書きますが、
君の名はと共通するのはやっぱり
あまりにもリアルな日常と
突如起こる自然の猛威という事実との対比が素晴らしいです。
フワフワしているところに容赦なく降りかかる災い。
でも果たして災いなのか神の思し召しなのか。
でも新海監督は、あくまで抗う人間の目線で描いてくれるからこそ
心に響いて結果的に地球と真剣に向き合うことができることを狙っているのかもしれない。

なんの罪もない、という言葉にいつも違和感がある私なので
ついこのようなことを書いてしまうけど、
本当は私だって人間らしい欲や幸せを目指す心がある。
それでこそ人間に生まれた意味かとも思う。
そこから目を背けて、神の目線を想像してもそれは嘘でしかない。
人間は人間らしくいないと生まれた意味がない。

これは私の持論です。