日々がハレノヒ

禅問答な生き方をしていこうと思っています。これからの人生をどう生きようかと悩める大人と、幸せってなに?について語り合えたらと思います。

私の宗教観について今話せること

今日は最後まで書いたとしても、もしかすると10年後は違うことを言い始めるかも知れない話。
実は私、おばあちゃんから続く宗教家庭に生まれておりまして、
有名中の有名な〇〇に生まれた時から入信していました。
物心ついた時から実家には立派な仏壇があり、
朝晩の勤行や地域の会合に出るのが当たり前でした。
母親は新聞配達をしていて、私もよく手伝っていました。

ものすごく田舎で育ったのですが、小学校高学年くらいから
「なんとなく浮いてるかもしれない」と気づき始めました。
勤行をしている同級生はほぼいないし、毎週日曜日の会合に出るのは決まった顔ぶれだけ。
近所でもなんとなくヒソヒソされているような空気感を子供ながらに感じていて
思春期にはすでに自分を「人とは違う何か」と認識していました。

お正月は必ず大きな会館に座談会に家族総出で繰り出し、
神社の鳥居をくぐるなと言われているからお祭りも心から楽しむことができず、
子供会で催されるクリスマス会も罪悪感に包まれながらモヤモヤと共に参加する。

もちろん、その時はそれが当たり前だったのでそれなりにいい思い出もあり、
本当の暗闇だとは思っていませんでしたが、
みんなが楽しそうにしているものを「それ違うのになぁ」って斜めから見ていたことは
今の私の人間形成にとても大きな影響を与えていると思っています。
そうですね、きっと私がそのまま大人になっていればよかったんでしょうが、高校生くらいで
「なぜこの宗教は自分たち以外の悪口を言いまくるんだろう?』
という疑問が頭に浮かび、その疑問は消えることなくどんどん大きくなっていきました。
だって、あろうことか新聞や座談会では他の宗教や政治の悪口を言いまくるんですよ。
なんていうかほんとに「悪口」なんです。
宗教は人を幸せにするためにあると思っていたから
「自分たち以外は全て悪」として貶めるような風潮に本当に心から嫌気がさし始め、
一人暮らしをするようになったことをきっかけに、その宗教から徐々に離れていきました。
ただ、生まれた時から刷り込まれた知識はなかなか払拭できるものではなく、
バチが当たるかもしれないという恐怖感は、何十年経った今も心の根底にあります。

これは余談ですが、
私は23くらいで大阪で一人暮らしを始めたのですが、
大阪の支部からの訪問が週に一度程度ありました。
怖いから居留守を使うんですが、帰った後には必ず温かい言葉の手紙が郵便受けに入っているんです。
おそらく、いや間違いなく私の親が「よろしくお願いします」と伝えていることで家庭訪問をしてくれたんだと思いますが、
当時足抜けをしたばかりの私からすると本当に恐怖でした。
このような出来事やバチが当たるかもしれない恐怖感や罪悪感を抱えながら、
それでも自分の人生をなんとなく模索していく。
これが私の20代でした。

そんな若かりし頃に出会ったのが、サイババでした。
宗教を変えただけじゃないか、と笑われるかも知れませんが、
サイババは宗教や教祖ではなく、聖人です。
あえてカテゴリー分けするなら思想家というべきか。
親鸞日蓮も、実在していた当初は聖人でしたから
未来にはサイババ教になるかもしれませんが。

ともかく、物心ついた頃から「神はいる、自分の中にいる」という確信があったことで
私はあの宗教よりもインドのサイババの思想に共感したのです。

私にとってサイババやインドは、自分と向き合う自信につながりました。
インドは宗教も何もかも混沌としていてまさにカオスですよね。
その混沌が、私にはとても心地よかったんです。
日本で暮らしていると、得体の知れない罪悪感と共に生きていかざるをえない私でしたが、
(そう、この頃には罪悪感の元が無意識下で団子のように塊になり、黒い生き物として私の芯に鎮座していました)
インドの本を読み漁るにつれて
「やっぱり神様は自分の中にいる。自分しか頼れないから自分をいじめちゃいけない」
という思いを抱くようになりました。

いわゆる一神教と言われる宗教は私にとって
「こんなことをしていると怒られる、地獄に落ちてしまう」
という気持ちにさせられるものでした。
仏様や神様が、いつでも自分のことを見張っているんじゃないか、と。
でも自分が神様だとしたら、自分が自分を認めてあげられればいいんです。
むしろ自分でしか自分を認めてあげられないんです。

・・・そうわかってはいるんです。
でも自分を自分で認めてあげるのは、私にはとても難しいことでした。
私の人生の大半で育った黒い大きな生き物に抗うことなどできるはずもなく、
いとも簡単にズブズブと自己肯定を下げる沼にハマっていきました。

実は私は、過去の自分について振り返ってみると
どれが本当の自分なのだろうとわからなくなるんです。

絵を描くことが大好きで、賞もたくさん獲って将来は絵に携わる人になると漠然と思っていた小学生時代、
ある時から絵や漫画を描くことがダサいと思い始めてペンを置き、音楽がかっこいいとバンドを始め、
気づいた時には人と違うことをするのがかっこいい、自分の道だと信じて大学を中退し、
髪を金髪にしてガソリンスタンドで働き、美容師になるんだと言って大阪に出て一人暮らしをし、
お金が欲しいからと言って水商売を始めて美容師をいとも簡単に諦め、
夜に溺れていく自分がかっこいいと思っていたから40歳まで水商売で生きてきました。
そう、「かっこいい」自分を追い求めては元々の自分を「かっこ悪い」ものとして消し続けてきたんです。

でも、理想の自分になりきることって、本当に、本当に難しいですよね。

インドの本を読み漁っていたあの頃、神様は自分の中にいるって確信していた頃、
ちゃんと自分を認めてあげる作業をしていれば、
瞑想によって自分を見つけてあげることができていれば、
こんなにいろんな自分を演じることもなかったのかも知れません。

自分を見つけられていないことの怖さに、
「頭でわかっていても行動できない」ことがあげられると思っています。
簡単に言えば、自分に自信がない。
例えば職場で自分を目の敵にする人がいたとして
物理的にその人と極力関わらないようにしたり
気がまぎれることをしてみたり、
きっと方法はいくらでもありますよね。
そもそも人からの評価を気にしないでいられればいいのですから。
でも、自分に自信がないから自分の判断にも自信が持てなくて、
その人と関わらないようにすることなんて無理じゃないか、
仕事している以上は仕事以外のことはできないじゃないかと
あらゆる言い訳をして自分で逃げ道を塞ごうとします。

嫌なことがあった時の対処法がわからないんですね。

だから鬱になったり、自殺を考えたりする。
歳を重ねれば重ねるほど重たい荷物をはねのけることができなくなります。
かさぶたが治りきるまえにさらに新しいかさぶたができてしまい、傷口を見えなくして自分を覆い隠すんです。

だから私は、この大きなかさぶたを、心に巣食う重たくて黒い生き物を
死ぬまでにきれいに浄化することを生きる目的として生きています。

私は今地獄に生きていて、まだ来世も地獄に生まれるでしょう。
そのくらい今世で業を重ねています。
執着や煩悩、目の前の課題をクリアできず自ら積み重ねていったその重さで沈んでいく生活。
本格的な老人になって身動きが取れないようになるとますます深刻になっていきます。
なので早くここから抜け出す努力をしないといけないのです。
急いで抜け出したいと焦る人が、宗教に助けを求めてしまうのでしょう。
でも、宗教はカンフル剤か麻薬。本当に解決してくれるものではありません。
自分以外に助けを求めることは、すなわち自分を見つけることを遅らせます。
私は僭越ながら警鐘をならしたく、この記事を書きました。

宗教についての記事なんて、本当に書いていいものか悩みましたが、
私の人生の土台として確かに存在し、避けて通ることができません。
また、苦労から目を逸らした時点で大きく後進してしまうのが人生なので、
せっかく苦労したのならしっかり分析して今後の余生に生かすのが生まれてきた意味ですものね。