日々がハレノヒ

禅問答な生き方をしていこうと思っています。これからの人生をどう生きようかと悩める大人と、幸せってなに?について語り合えたらと思います。

すずめの戸締りを見て※ネタバレ

君の名はを見てからはや6年。
実は私は「天気の子」を見ていません。
仕事が忙しかったこともありますが、
前評判があまり芳しくなかったことが一番の理由です。

かといって新海誠監督作品はメッセージに溢れているので
どんな前評判だとしても見るべきだったはずなのですが・・・
すみません、次回までに配信動画でですが必ず見させていただきます。

さて、すずめの戸締りは君の名は以来の大ヒットを記録していますよね。
かく言う私も6回映画館に足を運び、鑑賞させていただきました。

というのも、1回目の鑑賞だとかなり後半まですずめにモヤモヤしっぱなしで
頭に入ってこないんです。
おそらく私が猫好きで、ダイジンのビジュアルと声が可愛過ぎて
ダイジンにばかり感情移入してしまったことが敗因でしょうか。

※ネタバレとなりますので、ここからは注意をお願いします※

まず、キラキラした女子高生がイケメンに会った瞬間から恋の予感が始まるシーン。
何回か見ていくとこのシーンの奥深くに隠されたものが見えてくるのですが、
とにかく思春期にイケメンに会うとこうなるだろうな、というわかりやすい描写から物語は進んでいきます。
同級生に顔が赤いと指摘され、思い立ったようにイケメンを探しに廃墟に足を踏み入れるすずめ。
そこでこれまた「あなたに会ったことがあるような気がするんですけど・・・」というお決まりのセリフ。
イケメンを探しているときにふと水たまりの中に佇む扉を見つけ、水たまりなのにも関わらず扉に近づき
不用意に扉を開ける。
中にはまるでこの世のものと思えないような満点の星空が見え、
そこに吸い込まれるように一歩踏み進むがなぜか扉の中に入れない。
でも扉の中を見るとやっぱり星空が見える。
それを繰り返しているうちに、足元に石があることに気づきます。
その石に近づくとザワザワ何かが聞こえてきて、思わず石を持ち上げるが
急に毛が生えた得体の知れないものに変わり、思わず手を離す。
怖くなったすずめは、開けた扉も抜いた石もそのままに走ってその場を去っていく。

この流れが強烈な違和感だったわけです。
強引過ぎないか?と。

そのまま映画を見進めていくのですが、やっぱり浅はかな女子高生として認識してしまっている以上
すずめがやることなすことモヤモヤしてしまうのです。

これが1回目の鑑賞でした。

ですが、こうして長々と1回目のグダグダ感に触れたのは大事な理由があります。

私的考察その①
すずめをわかりやすく思春期の女の子として描いた理由

この映画のキーは「人間のさまざまな思いが渦巻き、ミミズとなって災いをもたらしている」こと。
人間には感情があり、人を好きになったり憎しみを持ったり悲しんだりします。
好きになることや愛を持つことは一見悪いことに思えませんが、
愛を持つと言うことはその反対の憎しみが生まれることにもつながります。
愛と憎しみは正反対で対の存在。愛が生まれると同時に憎しみも生まれます。
これが複雑に絡み合い、ドロドロとしたものに変わっていく。
まさにミミズなのです。
また、思春期の感情は清く、描写として適していると言えますので
映画の初めから終わりまで「人間の思い」を芯として置いておくための大切な背景だったのかなと思っています。

私的考察その②
ダイジンの存在

ダイジンはとてもかわいい猫の姿をして、行く先々で人々を魅了しています。
また、ソウタやすずめから逃げるように北上し、その間も意味深な行動をし続けます。
すずめはそんなダイジンをみて「ダイジンが扉を開けて回っている」と思い込みますが、
本当のところはどうだったのでしょうか。

ダイジンはソウタいわく、神だということのようです。
要石として大切な役割を担う神。
そんな神が逃げ出し、大事なそうたさんをイスにしたままふっといなくなる。
そうたとすずめはこう思っていたようです。
ですが私はこう思います。
ダイジンは神。
ダイジンは、すずめが「うちの子になる?」と言った時から
すずめのために行動しています。

神様だからすずめの行く先々でお店が繁盛したり人に助けられたりすることで
すずめが扉に行き着くための手助けをする。
神様だからすずめに「もう二度と顔を見せないで!」と言われてしょんぼりと離れていき、
ダイジンという神様が離れてしまった瞬間から誰もすずめを手助けしなくなる。
でも要石という神様であることから、離れた後も
すずめが戸締りするための行動を助けようとします。
サダイジンとダイジンがサービスエリアで合流し、そこからお供することからも
神様として役割を果たそうとしているのだと思うと、けなげで悲しい気持ちになりますが、
神様なので人間目線の感情はきっとお門違いなのでしょう。
すずめの子になれなかったから、せめてスズメの手で(要石に戻して)というセリフがありますが
あのシーンは本当に本当に切なくなりますね。
なぜあのような悲しい描写になったのかを考察したくて
何度も映画館に足を運んだようなものなので、
ダイジンについてとても長くなってしまいましたが、
「神様だから」という視点であれば私の心が救われるという、私なりの考察でございました。

私的考察その③
たまきさんについて

たまきさんは、すずめの人生の闇の部分を描写するために必要な存在です。
震災孤児である姪を、自身は独身であるにも関わらず「うちの子になろう」と言って家族になり
さまざまな葛藤を抱えつつすずめを育ててきた女性です。
私はこのたまきさんが重要なヒントを持っていることに気づいたのは
主題歌を担当したRADWIMPSさんのサントラに収録された曲をきいたことがきっかけです。
実はサントラには、本作で使用されていない曲が収録されていて、
そのうちの1曲が「Tamaki」という曲で、歌詞もまさに映画で使われないことを想定しているような歌詞。
ということは、この歌詞は映画を理解するヒントなのではないかと思ったのです。
すずめに対するたまきさんの心を歌ったようにも思えますが、私はこの歌を
たまきさん本人に対する心の声なのかなとも思いました。
すずめを引き取ってお世話をするが思うようにうまくいかず、
すずめの心がわからず振り回されているような気持ちがずっとある。
でも突き放すと自分が善人ではなくなるのでは、と
良心の呵責のようなものもあって、
そのはざまでずっと生きてきたたまきさん。
サダイジンがサービスエリアでたまきさんの本心を引き出した時から
たまきさん自身もいろんな呪縛(自分が課していたもの)や複雑に絡んだ思いから解き放たれ、
その後は晴れやかな顔ですずめと仲直りできていました。
人間の思いが絡まってできたミミズを抑えるかのごとく
ダイジンとサダイジンの要石(神様)の役割が発揮された場面として
大好きなシーンです。

人間は神様に助けられつつ、神様からもらった愛(感情)を昇華していくことができれば
きっとミミズは消えていくのでしょう。
この映画は私に、人間の本来あるべき姿について深く考えなさいと教えてくれたような気がします。
新海誠監督、心からありがとうございました。